昭和47年08月14日 朝の御理解



 御理解 第85節
 「女の身の上、月役、妊娠、つわりに、腹痛まず、腹帯をせずして、産前、身軽く、隣知らずの安産。産後、よかり物、団子汁をせず、生まれた子に五香いらず、母の乳をすぐ飲ませ、頭痛血の道、虫気なし。不浄、毒断ちなし。平日のとおり。」

 これは私共信心生活の上に教祖様の教え下さる事を、信じれれるという確信出来るという事の中でも大変難しい御理解だと思いますね。例えば現代医学の上での行き方からまいりましたら、又は永い習慣というかねぇというような事から言うても、もうそれこそあまりもの事だと。もう冒険だと思うような感じですねぇ。生まれた子に五香要らず、母の乳をすぐ飲ませというところなどもね大変難しい。けれども教祖様がこのように教えで下さっておられるからと頂けれると言う事。
 それを本当に何の危なげもなく頂けれると言う事これは。しかも不浄毒断ち無し、平日の通りとこう。もうまるきり、それこそ犬か猫のような感じですよねぇ。だからこれは考えますと、人間だけがとりわけ大事にされなければならないと言った様な事じゃないのですけれども、まぁ人間は大事をとらせてもらって、産後例えばひと月くらいは体を安静にしておったりね。というような事なのですけれども、なかなかそこを教えておられるから、こうなかなか出来ませんのです。
 けれども私は、今日はそういう産前産後とか、妊娠とか隣しらずの安産とかといった事ではなくてですね、もう本当に私共がこれは妊産婦だけに下るのじゃなくて、私共信奉者がここを頂くとすると、もうそれこそ隣しらずの安産と言った様な、おかげがね様々な事の上で頂けれる。もういつの間にどうして、このようなおかげを頂いたであろうかといったようなおかげをね、又おかげが生みなされてくるようなおかげを頂くために、一番大事な事は一番最後のところの平日の通りと仰せられる。
 だからね、その時だけ平日の通りではいけないのですから、その平日そのものを、如何にこの信念に満ちた行き方、生活をしておらなければ、その時だけ任せられるものではないと言う事。今日はそこんところを聞いて頂きたいと思うんです。只お産の時だけ,さあ平日の通りだといわれても、それを教祖様はそう仰るけれども、というてとてもそんなわけにいかんのです。
 だから今日は、お産の時だけじゃないのですけれども、私共日常茶飯事の中にですそういう平日の中に、平日の時何にもない時、とりわけどう言う事のない時に、その平日の時を大事にする信心。私共の上に様々な難儀な事があります。けれどもそれはよいものが生みなされてくるためのくいうなら、新しい自分の命が生まれてくる事のための、それは陣痛であったり、又はつわりと言った様なものといっていいでしょうね。
 それはやっぱりお腹に赤ちゃんを入れておるのですから、もうそれこそやっぱりきついだろう、暑い時は暑いだろう、寒か時は寒いだろうという感じが致します。それは男がわかる事ではございませんけれどもです、だからそういうんならいよいよ、よいものが生まれてくる、生みなされてくるその前提をです、大事になけければ、生まれる時だけ、生まれてからだけ、こうしたらよい、こうあらなければならんと言う様な事ではなくて、それ前のいうならば、妊娠をする前の信心が大事だと言う事。
 よいものが生みなされてくる、例えばよいものがおかげを頂くその前提の所を大事にしてゆかなければ、例えばいよいよ、よいものが生まれるものが宿った、そこから普通とは違った難儀がこうやって感じる。けれどもそれは有難い事、もう大分大きゅうなんなさったですね。きつうあんなさるでしょうと。それでもきつうあんなさろうと言うても、そのきつうあんなさろうというのは、難儀なこつですなあというのじゃない。
 生み出される時の事をお目出度うございますという意味のきつうんなさろうである 妊産婦に対するそれはそうでしょうが。それはああた、どうしたじゅずなか事ですな、ああた困んなさるですねという意味じゃないわけです。ですから信心させて頂いておって、よいものが生みなされてくる前提としてです、そこに難儀を感じ人もそれを見てから、まあ本当にじゅずない事であんなさろうというだけではなくて、あそこを通り抜けなさったら、どげな素晴らしいもんが生まれるじゃろうかと思うから。
 祝福したいような内容の言葉なのです。妊産婦に対するきつうあんなさろう、大分きつうあんなさるですねというのは、それは口でこそおめでとうございますと言わんでもです、心の中には、おめでたいというのを内容に含んでの、きつうあんなさろうである。自分も又そうです、よいものが生みなされてくる事のために、日々を大事にしていってとるわけであります。あれがお腹の大きかまま三年も五年もあのままこうこうしとかんならんななら、それはじゅずない事でしょうばってん。
 十月十日(とつきとうか)すればちゃんと、おかげ頂けるようになっておる。今ちょうど私のとこの嫁なん暑いのでかきついさかりだと思うんです。しかし私は医者にいけばわかるんですね。十月十日が予定日だそうで、まぁ何と有難い事かち私言いよります。教祖様の御信心を頂くからには、先日誰でもなかね、十という日は山田先生が言われてますが十日の日だけでも大事にする。しかも教祖金光大神の永生の祭日と言われる、十月十日に生まれる生まれんはべつとしてです。
 丁度計算すると、その日が生まれる日になっておると言う事なんかね、はぁもう神ながらのおかげと思っとります。きつうあんなさろうけれども、それはおめでたいと言う事なのです。ですから私共が様々な難儀を感ずる時でもです、本当によいものがいつか秋永先生が言われてたように、もうそれこそ歯を食いしばらなけれはならないような時でもです、そういう苦しい時でも心の中にニヤ-とするものが生まれてくるといつかなにか発表されたことがあります。
 ここを通りぬけさせて頂いたら神様はどんなおかげを下さるち、思いござるじゃろかと思っただけでもニャッとする。苦しいけれども心の底には有難い、楽しいというものがあるということ。だからそこんとこを信じなければ、そこで平日とうりといわれる普通、不断の信心が大事だという事になるのです。これは私が毎朝四時に御神前にぬかづかせて頂いてもう実感として、一番始めに御礼の言葉にもならないですけども、思わせて頂くことは、今日ここに座らせて頂けたと言う事がもうそれこそ。
 言葉に形容されない言葉に出らないです、私しこの事だけ今日はここに私がのりと座の上に座らせて頂けたという事なのです。と思う事はとても健康でなければ第一出来ません事ですから、そこからずうっと広がってきて、私だけではない家族だけではない、ここに信心を頂いておる信奉者の皆の平日の通りのおかげを受けておると言う事です。今日の言葉で言うと。普段おかげを受けておると言う事をおかげをおかげと感じてない。例えば皆様が日々健康のおかげを頂いておるから毎朝、朝参りが出来る。
 ここに参ったとたんにですね、ここに教会にお引き寄せを只今頂いたと言う事に大しての万感からの神様への御礼心と言うが出来たならね、後はもう有難い有難い御祈念が出来るのです。これが一番です。私はそう思うです、今日ここにお引き寄せを頂けた、只今御神前で御祈念をさせて頂けるこの座に着かせて頂いたという事は、もう大変なおかげなのです。これは私の毎日、毎日の実感なのです。
 もう四時、そしてあすけ座ったもう柏手もなしに御神前にぬかづいた、もう神様が待ち受けてござる。その待ち受けてござる一番の言葉にもならない程の有難いものは、今日ただ今ここに私が座らせて頂けて、只今から御祈念がでけると言う事、これはとりもなおさず私の手足が自由で健康でおかげを頂いてあると言う事がもとなのですね。私くしそういう有難い思いでここに座らせて頂いて、私しここに座らせて頂いて御祈念を、今御理解を説かせて頂きますから、皆様が雑記帳やら教典やらを出されますですよね。
 ちょっとこう私が見せて頂いたら、綾部さんが教典を押し頂かれるところを、ちらっと見たら、もう感動が湧いてどうもしょうがなかったです。だからですね、その感動と言うものはいつもずうっと感動し続けておると言う事じゃないのです。生神金光大神でもそうです、有難い、権化のような方で、ある固まりのような方であるというても、いつも感動し続けておられるものではない。内容にいつも秘められておるもの。だから何かに触れられた時感動するのです。
 例えば、私が朝の御祈念を終ってもうここでは感動いっぱい。まぁせめてこの時だけは、私の一番素晴らしい時間なのですね。心の中にはもうそれこそおさえきれないほどの感動があるのですから、ちょっと人が有難いと思うたり感じたりおし頂いたりしてる姿を見たとたんにです、私の心の中にはどうにもでけんほどの感動が湧いてくるのですね。だからそれがあ有り難いのでなく、そういう内容をここに持っておるという事、だから有り難くなれるのです。
 常平生普段に自分の心の中に有難いとういものがある、なからなければそのときだけ有難くなろうちゅったっちゃ有難い自室に直面しておっても、有難いとは感じないのです。そういう事になりますね。昨日は十三日会、私は今日はもう一つ有難い事があります。私は御祈念前にお届けをのある方何十名の方がこうスートと、お日届のある方とそれから各支部長さん方のお届けをさせしてもらうんです。ずっとお届けさせて頂いて、支部長さんのお届けが終わって次に移ろうとした時に、東京支部と言う事を頂いたんです。
 私はね、昨日若先生が今日は、東京から東京支部のも見えるけんでちゅうてから皆様に紹介しましたよ、ここの場合あの先生方だってです、総代さん方だって誰も私が決めたというものは何にないです。いつの間にか誰かが先生というごつなるとです。本当です。教職を受けとる教師これは別です。ここでそんなら、例えばそんなら秋永先生とか、久富先生とかと申しますけども、久富先生ち言わにゃんいかんばいち言うてから、やっぱり先生のお話を頂いて助かる。
 先生の話を聞いて成程とその合点するような日常の中の言葉のやりとりの中でもやっぱり先生だなと思わにゃおられん、言わにゃおられんものがいつの間にか身についてくるのです。ここであの総代がはじめに出来たのは私が椛目で一番はじめに私しが一人でお祭りをつかえた、もうあそこに入り来らんほどしに人が助かるようになってからのことでした。それで私が玉串を終わった後に信者が玉串を上げなきゃならんから、んなら前列に座っておられる方達が五人であげて下さいと私が言ったんです。
 その時五人で上げたのが一番初代の総代さん方だったですから、前に座っておった人たち、まだ総代も役員も何もなかったんです。だからそのまま、総代さん、総代さんというようになったから、否応なし自分としても。だからそういう意味でです昨日はははぁ東京の支部長さん、支部長さんという事は、もう稔さんに支部長さんのいうなら、神格です。もういうたらね、格が出来たんだなと、私はまだ昨日はそれを思わなかったけれども、今日改めて頂いて。
 だから今日から東京支部長、久保山実稔をお届けする事になったわけです。だから東京、沢山信者はおります、けれども支部長まだ支部とまでは呼ばなかったがこれからは、東京支部と言う事になるのです。昨日十三日会でに、支部長さん方ばかりが皆発表されました。佐賀の竹内先生、東京の稔さん、それから秋永先生、それから大分支部の綾部さん、久留米、熊本から見えてませんでしたけど、四人の支部長さん達のお話、それもどのお話頂いても有難いと信念に満ちたお話ばっかしでございました。
 竹内先生なんかの場合は、いわゆる市政いわゆる行政の上に、生神金光大神を頂かれての事、先日から合楽は御霊地と言う誰かがお知らせを頂いたというお話を聞かせて頂いて、本当言うたら、久留米に入ったとたんに御霊地と言わなければならんのでしょうけれども、私は椛目元広前のあそこんところから、衿を正して御霊地にはいるぞという思いで今日はこらせて頂いたと話しておられます。
 そして行政の上にですいうならふつう百年計画と申しましょうか、この事だけは百年間はゆるがないだろうと言ったような、それが私が市長になったとたんから次々とそういう市政の上に大きな変革、変動が起こって、それを竹内市長の時代に是が出来たあぁなったと言う様なおかげを頂いておる。もうこれは天候の上なんかにでもそれはもう本当に今度の市長はついとるばいち、皆がいう位だという事を話しておられました。
 最近の御理解の中に、神様に喜んで頂ける願い、いうならば真実の願い、本当の願い、神様の願っておられる願い、いうならば神様が願っておられる願いを私達の願いとしてと言う事、本当の願い、本当の願いと言う事をさせて頂けば、その願いそのものの光に浴する事が出来る。その願いそのものの光を受ける事が唾液る。だから物事は自然に成就していくという御理解を頂いて、いよいよその念をつよくするとこう言うてあられます。もう私の場合は伊万里の市政の事ばっかりですけども。
 伊万里の市政その事自体がです、天地の親御理解のお喜び頂けるような市政を、金光大神の御取次によって、これから、伊万里市の発展があるという事を祈り願うと言っておられます。神様の願いがそのまま竹内先生の祈りと同じものになってくる。これは稔さんもその事を言っております。私は二葉寿司の自分のお店がです繁盛するようにと願ったことはいっぺんもありません。
 けれども、仕事着を着てお店に中に立った時にです祈らせて頂くことは、どうぞ今日もお客様に喜んで頂ける御用だけさせて下さい。神様にお客様に喜んで頂ける仕事だけさせて下さい。これは切にやむにやまれん願いだと言ってます。素晴らしいじゃないですか 様々な商売を持っておる人がです、どうぞ今日も繁盛いたしますようにとは、誰でも願うけども、それは真実の願いじゃない。
 神様が喜んで頂く願いじゃない。お商売をさせて頂くならばです、そのそれにまつわるところの人達、いうならお客様が第一喜んで下さるような、ほんとに心から喜んで下さるようなお商売をさせて下さいという願いなのです。これが神様を動かさないはずない。神様の光をそういう願いそのものが持っておる光を浴びないはずがないねという事になりますでしょう。大分支部長が話しておられますように、いまだ私はここに御縁を頂いて二年半でございます。
 何が何か分らんなりにおかげを頂いておるうちにです、とにかく親先生がおっじゃる事ならばというものが生まれてまいりました。とこれは私の二年半の信心体験からこれを申しあげる事が出来るという意味の話をしておられました。いうなら平日の通りという、平日の時の普段の信心が出来ておるからこそもうこげな事ば親先生にまかせる事がなられるもんかいという事でもなれれる、又なったらそこにおかげになるという確信が段々いうならば身についてきたという発表をしておられます。
 いうなら、平日のその信心、些細な事からお取次頂いて、親先生が右とおっしゃられるなら右という生き方してみると、ここんところでもです、たとえ普通の常識から言うたらそんな無茶なという感じのする御教えですけどもね、教祖様がおっしゃって下さるからもう本当に淡々としてこれを受けていけるほどしの信心が出来たら素晴らしい訳なんです。これは特にこれは女性の方の場合。私はそれをそうせよとは申しません。
 うちの嫁でもこの頃から、赤ちゃんが元気になる栄養になるそのお供えにお薬を頂いたっていうから、頂かんつもりだったらしいのです、そげな事じゃなくここん教会に居るからそげな薬のんじゃならんとか、どうちゅうこたなかよ。だからお願いさせて頂いとくから、飲みなさいと言うてから飲ませたんですけどね、ですからそのへんのところをまちごうて、がむしゃらに自分は信じきらんのに、そこまでの普段のおかげは頂いておらんのに、例えばがむしゃらに親先生まかせと言うたってです。
 だからその日頃の稽古が段々出来ていかなければ駄目だと言う事になります。生まれる時だけ、妊娠した時だけ神様まかせになると言う事は、例えば今日の御教えなんか絶対に出来ない。むつかしい、けれども平日に親先生まかせになってさえおけばとか、神様まかせななってさえおけばという日頃の信心が出来ておればです、これはもうどのような事場合であってもおかげが頂かれる。
 どのような場合であっても、安心しておまかせする事が出来る。そこに隣知らずの安産が約束されるのであり、おかげを受けさせてもらう事が出来る。それには平日、普通の日の通りその時だけが出来る事ではない、その時だけ平日のとおりに産んだら明日からがまださんのて言うても出来ん。出来る事じゃない。けれどもそんことこがですね、本当に信じきれての事であたっら、それこそ平日の通りのおかげが受けられる程しのものだという事をですね、私共はわからせてもらわないけん。
 これは昨日のある方のお取次をさせて頂いたんです。ところがお母さんがそのお姑さんがいうなら財力があるし、財産もあるし、それで嫁さんとの間に事々に信心せん者ばっかりは、どげん事でん言うちからというようなものがあるわけです。行かれたところは信心がないわけです。それでも本当にこの頃からそげな無茶苦茶ばいわっっしゃ帰ってこんのち、言いたいごたる状態やった。
 これは信心のあるのでも、けどもやれやれ待って待って、これは御神意に違いないというてお母さんが熱心に信心致しますから、けれどもね、それを向こうのお母さんがそういわっしゃるからと言わずに、それを神様の御都合と頂いていきゃそこからおかげになるよと言うてなだめすかして、まあ辛抱させてあった。ところがおかげを頂いてからその後、それこそ手の平を変えやすようにおかげを受けられて、もう大事にされること、こりゃ気色の悪いほど大事にされるようなおかげになってきた。
 昨日その方達が親子四人連れで御礼に遠方に居りますから遠方からわざわざ、御礼に出てきました。そしてその事を神様にお届けさせて頂きましたら「鬼が金棒持っとる」こうやってとその鬼ばね逆さまに頂いたです。例えいうなら、極端な表現ですけど鬼のごたる婆さんであってもということですたいね、金棒という事は、金持っちょるという事じゃろうと思います。そのばあさんがだから我よかごとなろうと思うちゃると、普通でいうなら、けれども神様の御心からするとです。
 その鬼が金棒を持っておるのが逆さまという事は鬼の逆さまはどげんなになるですか。あの人は鬼のごたるというその反対は、あの人は神様のごたる、仏様のごたるというでしょうが。だからそれは鬼じゃないそれは神様じゃという事なんです。だからねあんた方ん婆しゃまがこれからどうこう言いなさった時はね、はあぁ神様がああ言いござると頂きなさい。と私しゃ昨日申しました。だからそれが実をいうたら本当なんです。
 ですから平日にです、すべての事の上に見るもの聞くもの、神の姿と見神の声ときかせて頂ける。平日の稽古をさせて頂いとかんと、ギャフンと言うごとやられた時にです、その鬼のごたる婆さんの言いござる事になってくる。ああこれこそ神の声として頂ける。もう実を言うたら鬼のごたるというても、それは実を言うたら、それは逆さま、反対のいうならば、神様のお姿だといわれる事は神の声として頂けれる信心を頂かねばいけませんというて御取次させて頂いてから、本当にそうだなあてと思うのです。
 それがその時だけ一生懸命あげん言われたばってん神様が言いござると、神様が言いござると思うても頂いても頂けない。常平生に何でもない時の中にその稽古をしっかりしておかなければその時だけ神様のお声として、神の姿として見えないというわけになるのです。今日は不浄、毒断無し平日の通り、それは隣知らずの安産のおかげを頂く事のために、私共がいつの間にこのようなおかげを頂いたじゃろうかと言う様なおかげを頂くことのために、平日を大事にしなければならんと言う事を聞いて頂きましたね。
   どうぞ。